1.はじめに
 短歌を紹介する前に,私と妻との出逢い,妻との40年間の生活,多趣味で明るい性格だった妻について述べます。 

(1)独身時代
 私が子供の頃に考えていた理想の家庭とは,夕食(17時~18時の間)は家族全員が揃って食事をする家庭でした。しかし,残念ながら私が小学校に入った頃から自宅が飲食店を始めたので全員揃っての夕食は無理であり,店が忙しい時には夕食の準備が出来ず,私と弟の二人が夕食も食べず寝ていたことがあったようです。また,社会人となってからは,日本の高度成長期の最中であり,電機会社の設計者となったので残業残業で夕食を家族揃って摂ることは無理だと思うようになりました。
 私は26歳を超えてから結婚のことを少し考えるようになりました。仕事人間であった私には異性との出会いが少なく,どうしても結婚対象が社内の女性に偏りました。しかし,結婚するには私の理想が高すぎたのか,感情に流されることが少なかったので恋愛に陥ることはありませんでした。
私の結婚相手の理想条件は,自分のことも顧みず次のように思っていました。
身長160cm以上で,目が大きく丸顔でぽちゃぽちゃな女性・・・人相学的に目が生きている人。
健康で素直な人・・・体の弱い人は健全な家庭が築けない。
素直で,正直な人・・・正直で素直じゃないと信用できない。
私より大きく頭の良くない人・・・私より頭が良過ぎると,私が劣等感を感じて惨めいなり,押さえ込まれそう。
家庭が我が家より,大きく裕福でないこと・・・お金持ちの御嬢さんは自分自身が努力して稼いだことがないので経済的観念が薄く,家同士の付き合いが大変。(私は貧乏な家に育ちましたから。)
出世を求めない人・・・人に媚びることを嫌い,自分の本音で仕事する私は社会人として出世は望めないからでした。

 そこで,冷静に条件を考えられるお見合い結婚をする事にしました。(私と同年代の技術屋は圧倒的に見合い結婚が多かったのは,冷静に物事を判断して行動するからだったのでしょうか。) 

(2)1974年4月 家内とお見合いをしました。
 家内の実家と私の住んでいた家とは200mも離れていない近所でしたが,それまで顔を合わしたことがありませんでした。初めて彼女と逢ったときにグリーン色の服を着ており,良く似合っていたのも印象が良かったのです。(家内はグリーン色が好きだったのです。)そして家内は,高校の後輩(これが気に入りました。)にあたり暫く付き合っている内に,一生を共に出来ると考えて6月に婚約し1975年1月に結婚しました。(6条件より,身長だけが理想を満足していませんでした。)
 彼女は高校卒業後に洋裁学校に行き,家で洋裁の仕事(殆ど遊び)をしており社会で働いたことがありませんでした。その家庭は,お父さんは公務員(大阪市役所)であったが定年退職され,特殊法人に再就職(天下り?)されている実直で温厚な人でした。
 お母さんは,初めて逢った時から”社交的でお喋りな遊び好き”と感じたのですが,その娘(家内)とは性格が違うのだろうと考えていました。しかし,その後お母さんと私との関係が・・・・
 そして,彼女には2名の弟が居ましたが共に働いていました。そして,私には親近感を感じていないようでした。なお,私は時々彼女の部屋に遊びに行きましたが洋裁をしている関係上で部屋が散らかっているのだろうと思っていましたが,実は”片付けるのが苦手”だったとは気付きませんでした。

(3) 新婚時代
1975年の新婚当時は,オイルショックで不景気な時代でした。それまで,残業が多く2人で生活できる給与はあったのですが,残業が無くなると収入が減りマンションのローンを返済すると生活が厳しくなりました。そこで,飲食店を経営していた実家が人手不足だったこともあり,子供が出来るまでの間で午前11時から14時まで家内が店を手伝いに行きました。
 店の手伝いが終わると,毎日家内は自分の実家(私の実家から200m以内なので)に帰り遊んでいたようです。私も残業が少なくなっており帰宅時間は7時頃だったので,夕食は一緒に食べることが出来ました。夫婦二人だけの夕食だったのですが,子供の頃からの理想であり非常に楽しかったのを覚えています。 しかし,景気が回復して仕事が忙しくなると私の帰宅時間が遅くなり夕食は10時を過ぎて摂ることが多くなりました。そして,10時に帰宅すると私は「」,「風呂」,「寝る」しか言わず,46時中仕事のことが頭の中から離れませんでした。
●会社に居る時間だけでは仕事の処理が出来ず,その仕事を自宅にまでもって帰り休日には家内にトレース等の仕事を手伝ってもらうことも多々ありました。これは,私自身の仕事が遅く,上司から注意されることに対してプライドが許さなかったからです。

(4) 仕事人間時代
●1980年代になると入社10年以上となり,仕事にも責任がますます増え平日は10時以降の帰宅が普通になりました。そして,土曜出勤は当たり前で日曜日にも休めない時もありました。
 私は1980年に本社設計へ係長としての移動となり,早くその職場の仕事内容を把握するために帰宅後も午前2時ごろまで勉強が続きました。この様な生活になると,家庭のことは全て家内に任せて,家内との会話も必然的に少なくなります。そして,休日は日ごろの疲れを取るために,家で寝ている時間が長くなりました。
帰宅時間が遅くなり,食事をして入浴後は就寝となりますが起床すると胃の調子が悪いので夕食は会社で済ますようになりました。従って,自宅で夕食を摂るのは土曜と日曜だけであり,殆どの日は家内が一人で食事を摂っていました。ある日,仕事が早く終わったので帰宅すると,家内がテレビの前にお膳を置いて一人で夕食を摂る姿を見て可哀想に思いました。子供が居ない家庭の寂しさです。
1984年10月に設計課長に昇進しました。管理職になると益々仕事量が増加して,週に2日以上会社に泊まりこんだり,帰宅しても時間は午前様でした。そして,土曜日も出勤が当たり前となっていました。こうなると,家内は一人で自宅にいる時間が長くなり,私の帰宅時間が非常に遅いので飲み歩くことが多くなりました。
●飲み歩きは家内の母が誘っていたようで,飲み歩いている家内の帰宅時間が私よりも遅く午前1時を越える時もしばしばありました。私が帰宅して寝ようとしているのですが,帰宅しない家内が気になり寝ることができません。そこで,家内が帰宅すると私は「今,何時や思てんねん。」,「明日も会社に行かなあかんのや。」と怒りまくりますが,酔っ払っている家内は気にしていません。私の怒りの矛先は,家内の母に向いて「娘をこんなに遅くまで連れまわすとは非常識だ!」と考え始め,それが繰り返されるので,家内の母とは絶交状態になりました。
●私は2001年9月に31.5年務めていた会社を早期退社することにしました。管理職と言う激務と,腎臓が徐々に悪化しており,このまま定年まで働くと”完全に体を壊す”と考えたからです。肉体的にも,精神的にも疲れ果てたので考え抜いた末に6月に家内に,「9月一杯で会社を辞めるから。」と伝えました。これからの生活のことを考えると,家内は私の早期退社に反対すると思っていたのですが,家内は「そう。」と答えただけで生活の心配を全くしませんでした。そして,9月末の最終出勤日には,家内は「長い間,お疲れ様でした。」と言い,いつもの様に私を玄関で見送ってくれました。
●無収入となった私は,暫く休職の後にどこかの会社で働こうと考えていたら,元働いていた会社から連絡が入り”営業技術”として復帰しないかの話でした。全く知らない会社で務めるよりは,勝手知った会社で働く方が良いと判断しました。正社員の主査待遇での復帰を勧められたのですが,私は定期的な通院が有ったのと大きな責任のある職席は嫌だったので委託社員として2002年6月から働き始めました。そして,2009年9月まで気ままに働かせてもらいました。

 (5)家内との旅行
 現役時代は新婚旅行以外で家内と旅行することが殆どなかった。自分自身出張(海外出張も)が多かったため旅行する気が起らなかったのと,仕事が忙しく精神的余裕が無かったのです。家内との記憶に残る旅行は,
●1985年2月 結婚10周年を記念して1週間の休暇を貰い家内とは初めての海外旅行としてサイパンに出かけました。病欠なら,自己管理がなっていないと苦言を言われるのですが,記念旅行なので休暇の許可が出ました。(課長には年休がなかったので休暇願が必要でした。)サイパンでは少し贅沢をしてハイアットリージェンシーで宿泊して,プライベートビーチのパラソルの下で本を読み,泳いだり昼寝をしたりでユックリした時間を過ごせました。何より,会社より絶対に電話が入らなかったのが有り難かったです。2回目の新婚旅行で真冬なのに真っ黒になって出社しました。
●1992年2月 会社の行事の一環として海外旅行の募集があり,私は家内同伴のオーストラリア旅行を選びました。ほとんどの時間がフリータイムであり昼間はゴールドコーストで泳いで,夕食はレストランを予約して貰って食事です。そして,オプショナルツアーでいろんなところに行きました。この時ぐらいから家内はブランド品の購入が好きになっており,ツアーのバスを一人で下車し買い物をしたいと言い出すさまです。英語の喋られない家内を一人にすることが出来ず,仕方なく私も途中下車して家内に付き合います。
 子供の居なかった我が家では,経済的に多少の余裕が有ったので家内は凄い高級店で買い物をしました。私を含めて,家内もブランド品に目が無かったのでした。

 この海外旅行が,家内との最後の海外旅行となりました。

●2001年9月に早期退社したので,これまで家内と旅行できなかった反省をするかのように一緒に出掛けることが多くなりました。
●2001年10月には故郷(奈良県の山奥)の墓参りに帰りました。
●2001年10月末には京都嵯峨野の紅葉見物に出かけました。
●2002年6月には3泊4日の北海道旅行に出かけました。10年ぶりの泊りがけ旅行でした。
●2004年2月には冬の白川郷などに出かけましたが,これが家内との最後の泊りがけ旅行となりました。
●その他,自宅近くの大型公園や,京都の植物園,私が2005年より野鳥撮影を始めたので金剛山等に一緒に行きましたが,撮影待ちの時間が長いので同行を断られるようになりました。

(6) 家内の趣味
 家内は非常に多趣味の女性で,1975年に結婚してから10年ほどは,1日3時間程度私の実家(飲食店)の手伝いをしていましたが,その後は亡くなる2015年までの30年間は毎日異なった趣味で人生を謳歌しました。
●詩吟・・・家内の母親が詩吟の師範であったこともあり,結婚当初から詩吟を始めていました。やがて,家内も師範となり癌に苦しみながらも2015年2月(亡くなる前月)まで詩吟教室を開催していました。自宅にはカップや盾,表彰状などが沢山あり居間を片付ける際に多量に廃棄しました。また,詩吟のカセットテープ,ビデオテープ,そしてDVDと時代の流れを示す家内の記録も多量に廃棄しました。
●海外旅行・・・ハワイ旅行が大好きで,1980年代からホノルルマラソン8回完走やフラダンスで10回以上出かけていました。最後のハワイ旅行は2014年6月であり,余程楽しかったのかニコニコ顔で帰宅しました。その他,シンガポ-ル,アメリカ本土,カナダに1週間以上の旅行をしたり,私とはサイパン,オーストラリア旅行をしました。
●マラソン・・・ホノルルマラソン完走が目的であったのか,日本国内のマラソンにも参加していましたが,先天性股関節脱臼が酷くなり走るのを止めました。
●英会話・・・海外旅行の為でしょうが,長期間英会話教室に通っていました。すい臓癌が酷くなった2015年1月に本人から英会話教室を脱会すると言い出しました。口には出さなかったのですが,家内はもう治らないと覚悟していたのでしょうか。
●ウクレレ・・・ハワイに行き始めてからウクレレ教室に通い始めました。しかし,いつの日か止めてしまいましたが。
●華道・・・1980年代には華道教室に通い新花と挿花の免許を取っていましたが,近年我が家で花を見ることは無くなっていました。
●スポーツジム通い・・・15年以上前からスポーツジムに通っており,水泳を始めました。このスポーツジムの会員登録は家内が亡くなるまで解約しませんでした。絶対あり得ないと判っていたのですが,家内の病が奇跡的に治り(小康状態になり)再びプールに行けることを願っていたのでした。なお,私も会社を早期退職した2001年からスポーツジムの会員となり,未だに週1回はプールに通っています。
●フラダンス・・・2003年よりスポーツジムでフラダンスを始め,他の教室にも通うようになり填まっていました。フラダンスでは年数回の大会が有り,その都度揃えの衣装を作ります。また,2年に一度はハワイ旅行があったので参加を楽しみにしていました。
●シンクロナイズスイミング・・・これも10年位教室に通っており,2015年1月の大会には病で参加できませんでしたが,表彰状を貰い祝賀パーティに参加できたと喜んでいました。この時は,殆ど食事ができないぐらい癌が進行しており,やせ細っていました。

 以上が家内の亡くなるまでの趣味であり,元気だった2014年11月までの1週間の予定は詰まっていました。
・月曜日:プールの日
・火曜日:フラダンスの日
・水曜日:シンクロナイズスイミングの日
・木曜日:予備日で買い物,美容院,月1回の和歌山への温泉通い
・金曜日:フラダンスの日
・土曜日:午前中は英会話で昼からは詩吟教室
・日曜日:詩吟,フラダンス,シンクロの大会が無い時は自宅に居ます。

(7) 家内の性格
●夫婦喧嘩は絶対にしない。私が一方的に怒るときがあるが,家内は口答えせず,私の怒りが収まると普段通りに話をする。
●我慢強く,泣き言を言わない。また,涙を見せない強い性格で,今回の病で亡くなるまでに涙を見せたのは,
 ・便が漏れるようになり情けなくなった時
 ・延命治療を拒否して,自分の死を悟った時
 ・臨終の際に動けず,口がきけなくなり,涙で私に別れを告げた時
●嫌とは言わない・・・何でもも私の言うことを聞いてくれました。
●笑顔が素晴らしく(手前味噌ですが),誰とでもすぐに友達になる人気者。
●人の悪口を言わない。しかし,嫌いな人間はおり,私と同じ考え方です。
●ルールは絶対に守る・・・信号無視,夜間の自転車無灯火運転,通行禁止場所の自転車立ち入りに関しては特にうるさかった。
 
 以上の性格であれば,聖人君子であると思われるが,当然欠点もあった。
●アルコール中毒?・・・家内の両親ともに酒飲みであったからか,私が仕事中毒で自宅で食事をしなくなってからか酒量が増えて,近年では毎晩晩酌で酔っ払って寝てしまっていた。「休肝日をもうけろ。」と注意したが聞かなかった。すい臓癌が見つかった時に,家内は医師に「飲み過ぎが原因ですか。」と聞いた。
●片付けるのが苦手・・・母親譲りの性格なのか,片付けるのが苦手で意味のない領収書なども仕舞い込んでしまう。私が,我が家に客を呼ばなくなってからは,いろんな物を貯めこみ始めたので家内が亡くなった時には居間や家内の部屋がゴミ屋敷状態になってしまった。
●買い物中毒・・・家事全てを家内に任せていたので気付くのが遅く浪費癖がすごかった。特に,2010年に家内が人工股関節置換手術後に,そしてフラダンスを始めてから浪費が非常に増えた。特に,洋裁をやっていた関係上から生地や仕立てにうるさく,ブランド品を買い求めていました。なお,家内は生まれてから亡くなるまで,まともに働いたことが無かったので金銭的感覚が欠如していたと思います。早期退職をした,普通のサラリーマンのしがない年金生活家庭だったのですが。

 亡くなってからこそ言えるのかもしれないが,”家内は私にとって掛け替えのない妻だった”と言えます。あの明るい笑顔が,我が家を明るくしてくれました。 

(8)家内の病気
 私(腎不全,高血圧,糖尿など)と違って,家内はすい臓がんになるまで風邪ひき以外で寝込むことは無かった。内蔵はすこぶる健康だった家内ですが,癌には勝てなかった。
●過去に,白内障で入院手術をした。そして,近年加齢黄斑変性が酷くなり,亡くなる寸前には右目がほとんど見えなくなっていました。
●先天性股関節脱臼・・・子供の時に股関節を脱臼しており,2000年代に入りだんだん歩けなくなった。そこで,2010年7月2010年11月に人工股関節置換手術を行いました。大手術であり,共に1カ月近く入院し,その期間に私は初めての一人暮らしを経験しました。この手術は,私が会社を辞めてからであり介護に専任できましたが,この時から夫婦の絆が強くなり,妻を愛おしく思うようになりました。
●椎間板ヘルニア・・・家内も私と同様に整形外科医院に通っていました。
●耳鼻咽喉科・・・鼻が匂いを感じなくなり,耳鼻咽喉科に通っていました。従って,料理には苦労していたようです。
すい臓癌・・・家内の命を奪った,最後の病気でした。

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